「うぅ~…最悪だわ」
少しでも油断すれば、瞼が落ちてしまいそうになるのを、ぐっと堪えながら、昨夜の彼女…雨宮 怜はそう呟く。
机に伏せながら、朝の教室独特の空気も、今の彼女には苦痛以外の何物でも無い。
「よっ!花の女子高生がなんだいなんだい、もっとしゃきっとしなさいな!」
「アンタ…花の女子高生て…」
底抜けに明るい声に、怜は更にげっそりとする。
まぁ本人は蛙の面に小便状態なのだが…
「そんな言葉はもはや化石よ…ったく、今がいつだと思ってんだか…」
「西暦2083年7月28日!現在8時25分…快晴!!」
「うん、どう考えても100年位は前の言葉だよね」
「ふむ…やはりそうなのかね?」
「そろそろ時間よ…席に付きなよ」
正確にはまだ授業が始まるには少々時間があるのだが、これ以上余計な体力を消費するのは正直きつい、怜は掌をひらひらと振って、クラスメイトを追いやる。
そのまま掌を机にぺたりと乗せる、机の内部にある指紋認証システムが、その机の主を数秒で認識する。
若干のラグの後、机の中央から厚さ5ミリの液晶ディスプレイが迫り上がってくる。
怜は鞄からキーボードを取り出し、学校側で用意されている標準仕様の物を取り外し、自分の物へと取り替える。
リーダー曰く『キーボードは安物を使い続ければ馴染む』に反対し、怜のキーボードはメカニカルの中でも高級品の部類に入る。
あの部屋にあるPCのキーボードも無理矢理メカニカルに取り替える程…言うなればキーボードのマニアである。
「ん~?」
プライベートのメールボックスを開き、新着メールの差出人だけ確認する。
“蜘蛛”
“ハゲ”
“ヒデ”
それだけを確認すると、それっきり興味を失ったかの用に、忙しなくキーボードを叩き出す。
本日のニュース…そう開かれたページを眺めながら、怜は唇の端をほんの僅かだけ上げる。
「うぇ~い、良い仕事したんじゃな~い?」
「ふぁあ…眠っ」
特徴的なスキンヘッドを擦りながら、相原 光は大きく欠伸をする。
朝と昼のちょうど中間の時間の町は、死んだ様な静かさだ。
「光ちん、どったのさ?」
金色に染められた髪の毛を、鬱陶しげにかき上げ、TシャツにGパンと言ったラフな服装の男…神楽 勇輝は、ファーストフードを食べながら、光に気の無い問いかけをする。
「大体な、俺は今回出番無かった訳だろ?それで出ろってんだから意味がわからねぇよ」
「まぁ俺も光ちんも出番無い方が楽で良いよねぇ~」
光の言葉より目の前のポテトの方が優先度は高いらしい。
勇輝は目の前のポテトを食べる手を休める事も無く、気の無い返事だけを返す。
「違うって!だからあの嬢ちゃんに舐められてるんだよ!俺等は!!」
「ヘイヘイ、そこ複数形にするのやめてくんない?」
手に付いたポテトの塩を払いながら、勇輝はのん気にそんな事を言う。
「大体俺等は出番無い方が平和的で良いじゃんか、年中仕事なんてやってらんな…」
ようやく正論を吐いた勇輝の言葉は最後まで語られる事は無かった。
途中でより興味をそそられる物を発見してしまったからだ。
「光ちん…あれ見てみ?」
そう言いながら勇気が指差した先には、巨大なオーロラビジョン。
そこでは本日のニュースが、キャスターによって語られている。
「でっかいニュースになってるのねぇ~」
モニターをぼんやりと見つめながら、俺には関係無いとばかりに呟く彼を、誰が犯行グループの一員だと気が付くだろうか。
「やっぱさ、でっかいモニターで見ると良いよね、うん、迫力が違うね」
モニターとニュースの内容…それは到底比べられるべき事では無いのだが、勇輝にとっては関係無いらしい。
当然ながら、そのニュースの全貌を知っているからなのか、ただ単純にモニターがお気に召したのか。
そんな勇輝の後ろで、光がサングラスの下の目を細める。
(焦りすぎて無いか…リーダー)
キャスターが天文学的な数字の被害総額を、淡々とした口調で読み上げる。
(それでも俺達は信じるしか無いんだよな…アンタを)
そのモニターを睨みながら、光は戸惑う様な思考にピリオドを打つ。
静まり返った町の一角で、光は祈る様に…ただ空を見上げていた。
灰皿から気だるく紫煙が上がる。
たった一人…この部屋の主以外に入る事を許されていない、この部屋に生活感は無い。
そう…それはまるで死人の部屋のように。
虚ろに光るモニターと静かに主を待つ紫煙のみが、かろうじてその部屋に人が…この部屋の主がいる事を知らせている。
光源がモニターしか無いのか、意図的に照明を付けていないのか。
この薄暗い部屋では、それさえも判らない。
モニターには、誰もが知っているニュースサイトからアングラな物まで、多種多様な情報サイトが開かれている。
灰皿から上がる紫煙がふっと移動する。
それと同時に一瞬だけ部屋が明るくなり、そしてまた暗くなっていく。
ゆっくりと煙を吐き出すと同時に、灰皿に燃え付きかけた煙草を押し付ける。
この部屋の主…昨夜リーダーと呼ばれた男には、昨夜の陽気さは消えている。
その漆黒の闇よりも更に深い闇色の瞳をモニターへと向ける。
モニターには専用回線からのアクセス許可が点滅している。
「やぁ、クライアント殿」
軽くキーを弾き、そう答える。
「スパイダー」
いつか誰かが彼をそう呼んだ…そして彼はそれを否定はしなかった。
それ以来の彼の通り名“スパイダー”
彼はそれ以上も以下も語りはしない、否定はしない。
そして肯定も。
「仕事は首尾よくこなしてくれたな、今からそちらの口座に送金をする…今後ともよろしくな」
モニターに映るのは、全ての欲望を具現化したような醜悪なクライアントの顔だった。
恐らく彼にだけ見せる、媚を売るような笑顔が、スパイダーには癇に障る。
ふぅ…と大きな溜息を付き、スパイダーは淡々と語りだす。
「いや、その必要は無いさ」
「…どういう意味だ?」
言葉の意味を掴みかねる、そんな表情でクライアントが聞き帰して来る。
実に数十億にもなる送金を事も無げに断ったのだから、それも当然だろう。
「情報提供の為にアンタの機関のイントラに入ったろ?面白い情報がいくつかあったんで、他に売らせてもらった…それが報酬で構わないさ」
クライアントの顔から血の気が引くのが、モニターからでも見て取れる。
スパイダーはそんな彼に飄々と続ける。
「おめでとう…明日はアンタがトップニュースさ」
「…っ!スパイダー!貴様裏切ったのか!?」
「…裏切る?」
それまで表情を変えなかった彼が、そこで初めて表情を崩す。
目の前に映る醜悪な生物に対する侮蔑の表情に。
「俺はアンタの飼い犬じゃねぇ!ブタは大人しくブタ小屋にでも入ってろ!!」
反論の機を与える事も無く、スパイダーは彼との専用回線を痕跡一つ残さずに消し去る。
スパイダー…ワールド・ワイド・ウェブの主として、恐怖と畏怖の念から呼ばれた名…
巨大な蜘蛛の巣を唯一自由に動き回る事のできる、最高のハッカーとしての称号…
虚空を見つめる彼の瞳のその先には、何が映っているのか。
闇色の瞳の真実を知る術は、今はまだ無い。